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 太平洋戦争 / 石油問題と海上護衛戦の失敗

 ハルノートに対し日本に他の道はなかったか? / 宣戦布告の遅れ

 真珠湾(チャーチル「第二次世界大戦」より) / ルーズベルト米大統領の開戦演説

 第二次世界大戦(ヨーロッパ) は防げたか? / シンドラーのリスト

 徴兵、召集の拡大 / 大東亜会議 / ポツダム宣言 / ソ連の満州侵攻

 昭和天皇の御聖断 / 昭和天皇とマッカーサー元帥 / 戦没飛行予備学生の手記

 昭和史から学ぶべき5つの教訓 / 日米開戦から敗戦まで(年表) / アジア諸国の独立

 太平洋戦争は歴史的必然だったのか? / 勝利のため、自国民を犠牲に

 軍産複合体への警告 / ケネディからの伝言 / 平和なときの平和論

 明治憲法と日本国憲法 / 戦争プロパガンダ10の法則 / 永遠平和のために

 平和祈念展示資料館 /  敗戦から日中国交正常化まで(年表) / 立花隆の助言

 東京電力福島第一原発事故(菅直人首相。吉田昌郎所長)

 前天皇陛下の戦争と平和に関するお言葉

             (このWEBページ「戦争論は、リンクフリーです。)

                                         

 太平洋戦争 (1941−1945・昭和16年ー20年)                 

 1941.10.18東条英機総理大臣兼陸軍大臣。東郷茂徳外務大臣。         

 嶋田繁太郎海軍大臣。賀屋興宣大蔵大臣。杉山元参謀総長。永野修身軍令部総長。

 連合艦隊司令長官山本五十六大将。第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将。

 第二航空戦隊司令官山口多聞少将。第25軍司令官山下奉文中将。     

 南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将。            1944.7.22小磯国昭内閣

 1945.4.7鈴木貫太郎総理大臣。東郷外務大臣。阿南陸軍大臣。米内海軍大臣。

 梅津参謀総長。豊田軍令部総長。                            

 近衛文麿首相は、1941年4月から駐米大使野村吉三郎に、アメリカ国務長官ハルと

 日米関係改善のための交渉をさせた。日ソ中立条約を締結(1941.4.13)した松岡洋右

 外相は、帰国して初めて、この交渉のことを知らされた。自分抜きで始められた交渉に、

 松岡外相は否定的な態度をとったため、アメリカは日本に不信感を持ち、日米交渉は

 まとまらなかった。                                        

 政府、軍部の間で、「南進論」(ゴム・コメ獲得のため、対英・蘭・米戦争に備える基地確保

 のため、南部仏領インドシナ進駐を行うという方針)が強くなる。6月22日独ソ戦が勃発、

 松岡外相は「南進は米英の介入を招く。独と協力してソ連を攻撃するべき。」と主張した。

 他の大臣、軍部は、「・南方には資源があるが、シベリアにはない。・米英との開戦になった

 場合、二正面作戦となってしまう。」と反対し、7月2日御前会議で南部仏印進駐が決定。

 独断専行の目立つ松岡外相を解任するため、近衛内閣は7月16日総辞職、翌17日

 豊田貞次郎海軍大将を新外相とする組閣が行われた。                  

 7月28日、日本が南部仏印に進駐すると、8月1日、アメリカは対日石油輸出を禁止した。

 (日本は、仏印進駐について仏ビシー政府の承認を得ていたので、アメリカがこのような

 対抗政策を取るとは予想してなかった。) イギリス・オランダもアメリカに同調し、いわゆる

 「ABCD包囲陣」が形成された。石油の輸入が不可能となったため、海軍の永野軍令部総長

 は、「ジリ貧より、先制攻撃が得策である。」と考えるようになった。

 9月6日、御前会議で、「10月10日までに日米交渉がまとまらない場合は戦争」との方針が

 決定される。(日本側の見通しは、「南方の資源を確保・長期戦争体制を整え、ドイツが

 ソ連・英を降伏させるか、優位な条件で講和を結べば、アメリカは単独で戦争を継続する

 ことをあきらめ、講和も可能である」というものであった。)             

 日米交渉成立のため近衛首相は陸軍の中国からの撤兵を求めたが、東条陸軍大臣が

 拒否したため、近衛内閣は総辞職する。                              

 陸軍を抑えることのできる人物でないと和平をまとめられないため、10月18日、東条英機

 が内閣総理大臣兼陸軍大臣となる。11月20日、日本は南部仏印からの撤兵(乙案)を

 提案し、ルーズベルト米大統領も一時暫定協定を考えたが、日本軍が上海からインドシナ

 へ移動してるとの情報を聞き、交渉成立を断念した。

 11月26日、ハル・ノート(中国、インドシナからいっさいの陸、海、空軍兵力と警察力

 を撤収すること。三国同盟を廃棄すること。 ー ここでいう中国に「満州」が含まれるか

 どうかは、明確ではなかったが、日本側は含まれると解釈した)が提案された。日本は

 これを最後通牒ととらえ、12月1日、御前会議で対米、英、蘭戦争が決定した。

 日本の宣戦布告が真珠湾攻撃より1時間遅れたことは、アメリカに、「だまし討ちを

 した卑怯な日本」に対し「東京大空襲。広島・長崎への原爆攻撃」、という非人道的

 手段をとらせることにつながった。                            

 「対米開戦」は、真珠湾奇襲攻撃の大成功という状況もあり、日本国民の大部分に

 支持された。( 対日石油輸出を禁止し、一方で国民政府を物資面で援助するアメリカ

 を、多くの日本人は敵国と感じていた。)                   

 戦況が悪化するにつれ、東条批判をする人物も出てきたが、軍によって弾圧された。

 東条退陣を企てた中野正剛代議士は、1943.10.21警視庁の手で逮捕され、今後の

 取調べから秩父宮、東久邇宮に迷惑をおよぼしてはならないと、10月27日自殺した。

 東京日日新聞の新名丈夫記者は、1944.2.13「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」との

 批判記事を書いたために、37歳という年齢にもかかわらず、2月16日陸軍に召集

 されてしまった。                                      

 1944年7月サイパンが陥落すると、重臣・海軍・議会で反東条の空気が強まり、

 東条内閣は総辞職、7月22日陸軍大将小磯国昭が内閣総理大臣となる。

 

 石油問題海上護衛戦の失敗  1941年7月28日、日本は南部仏印に進駐、8月1日、

 アメリカは、対日石油輸出を禁止した。イギリス、オランダが同調し、輸出禁止をしてない

 南米諸国からの輸入も、アメリカがパナマ運河を封鎖したため不可能となる。       

 *1941年度、日本の「原油および石油製品在庫量」は約4900バーレル、「原油生産量」

 は年間約190バーレル、「人造石油生産量」は年間約120バーレル、「石油消費量」

 は年間約2300バーレルであった。  (*1941.4月ー1942年3月)          

 在庫からの取崩し量を計算すると、2300−(190+120)=年間約2000万バーレル

 4900÷2000=約2.5年      石油輸入が途絶えたままでは、二年半後日本は

 戦わずして、アメリカに降伏しなければならない。対米戦に反対してきた海軍も、

 「日米交渉決裂の場合は、蘭印を攻略し石油を確保しなければならない。当然米・英は、

 蘭を支援し、日本に敵対するだろうから、対米英開戦もやむを得ず。」との方針を決める。

 太平洋戦争は、「石油のための戦争」と言えるが、日本海軍は艦隊決戦の思想が強く、

 海上交通線確保の重要性を認識してなかった。(例えば、海上護衛総司令部が新設

 されたのは、1943年11月であった。) タンカーの喪失は、1942年度4千トン、1943年度

 38万8千トン、1944年度75万4千トンと激増。逆に、南方から日本へ還送された

 「原油・石油製品」は、1942年度1052万バーレル、1943年度1450万バーレル、

 1944年度498万バーレル、1945年度ゼロと激減した。                

 タンカー以外も含めた商船全体では、1937年7月7日から、1945年8月15日までの

 間に、2741隻が沈没し、6万331名の船員が犠牲となった。(日本人5万6601名、

 朝鮮人2614名、台湾人1019名、外国人11名、不明86名) 船員の損耗率は、

 43%で、陸軍の20%、海軍の16%に比べ、はるかに多くなっている。 (なお、

 アメリカの商船被害は、98隻であった。)                         

 商船喪失の原因は、潜水艦による攻撃50%、母艦機16%、陸軍機12%、機雷9%

 であった。太平洋艦隊司令長官C・Wニミッツ大将は、戦後の回想録で日本の誤りを

 指摘している。                                        

 「日本軍は開戦当初、アメリカ潜水艦をなめていたため、輸送船の護衛体制を致命的

 におろそかにした。もし日本軍が五、六隻の護衛艦をともなった30−50隻の大船団

 を組んでいたら、日本の船団は安全であったろう。その上、強力な護衛艦群はアメリカ

 潜水艦にとって大きな脅威であったはずだ。                       

 日本軍は輸送船を単独で航行させたが、その撃沈率は船団に護衛艦のついた場合

 の二倍半にものぼった。その上、アメリカ軍潜水艦をいちばん多く撃沈したのは、

 航空機でも機雷でもなく護衛艦であった。もし日本軍がもっと効率的な護衛体制を

 とっていたならば、アメリカ潜水艦の攻撃力は大いに減殺されたことであろう。」

 (海洋国イギリスでは、商船をマーチャント・ネービーと呼び、戦没船員は陸海軍の

 戦没者とともに同じ碑に名を刻まれ、大切にされているという。日本では、民間関係者

 によって建立された「戦没船員の碑」が、神奈川県の県立観音崎公園内にある。

 また、「戦没した船と船員の資料館」が、兵庫県神戸市中央区海岸通り3−1−6

 全日本海員組合2階にある。)

                            

 ハル・ノートに対し日本に他の道はなかったか?

 (ハル・ノートの中の「中国」に、満州が含まれるか確認しなかったのは、問題外として。)

 1、ハル・ノートを公表すれば、アメリカの反戦勢力はルーズベルトを非難しただろう

 から、もう少し日本にとって有利な案が出てきた可能性がある。

 2、石油資源獲得のため対英、蘭戦争は避けられなかったとしても、アメリカに対して

 日本から戦争をしかけるべきではなかった。日本から攻撃しない限り、民主主義国

 のアメリカは、たとえルーズベルトが望んでも日本に戦争をしかけることはできなかった

 だろう。

 (合衆国憲法では、大統領は陸海軍の「最高指揮官(Commander in Chief)」

  だが、宣戦布告(declare war)は連邦議会の権限となっている。軍の予算を

  決定する権限も議会が持つ。)

                                   

 宣戦布告の遅れ ー リメンバーパールハーバー                   

 ( 駐米大使 野村吉三郎 ・ 来栖三郎 ) 日本から最後通牒が届いた日の前夜、

 ワシントンの日本大使館では、人事異動の送別会があった。このため、暗号の解読

 タイプ打ちが間に合わず、対米宣戦布告は、真珠湾攻撃より1時間遅れてしまった。

 ( 正式文書が間に合わなかったとしても、「ハル・ノート拒否、日米交渉打ち切り」という

 要点を文書にし、決められた時間に渡すべきだった。)                

 アメリカ国民は、「リメンバーパールハーバー (真珠湾を忘れるな )」を合言葉に、

 「だましうちをした卑怯な」日本に復讐するため一致団結した。            

 トルーマン米大統領は、広島・長崎への原爆攻撃について、下記理由を述べている。

 1、真珠湾奇襲に対する報復。(アメリカの被害は、戦艦 完全喪失1隻、転覆1隻、

 擱座3隻、航空機 数百機、戦死者 軍人2400名、一般市民70名にのぼった) 

 2、ペリー日本開国以来、アメリカの対日友情に対する日本の忘恩的行為への憤り。

 3、戦争の早期終結に役立つ (本土決戦になったら、さらに多数の日米両国民の

 死者が出る )                                       

 予定時間の1941年12月7日午後1時 (ワシントン時間) 、宣戦布告をしなかった

 この瞬間に、アメリカの原爆攻撃、日本の無条件降伏が決定したと言える。

    

 真珠湾(チャーチル「第二次世界大戦」より)

 「合衆国をわれわれの味方にしたことは、私にとって最大の喜びであったと私が

 公言しても、私が間違っていると考えるアメリカ人は一人もいないだろう。私には

 事件の進展を予測できなかった。日本の武力を正確に見積っていたなどという

 つもりはないが、しかしいまやこの時点で合衆国が完全に、死に至るまで戦争に

 入ったのだということが私にはわかった。それゆえわれわれは、結局はすでに戦争

 に勝っていたのである!」                                 

 「三十年以上も前にエドワード・グレイ(第一次大戦中の英外相)が私にいった言葉

 を私は思い出した。合衆国は『巨大なボイラーのようである。いったんその下に点火

 すると、生み出す力には際限がない』という言葉だった。感激と興奮とに満たされ、

 満足して私は床につき、救われた気持ちで感謝しながら眠りについた。」 

  

 ルーズベルト米大統領開戦演説  「1941年12月7日は、歴史上の汚点となる

 でありましょう。我がアメリカ合衆国は、日本帝国の海軍により突如、計画的なる

 攻撃を受けたのであります。しかもそれは我がアメリカ合衆国が、平和への熱意

 と希望を捨てずに、日本政府を相手に誠意を持って折衝を続け、太平洋の波風を

 抑えていた最中です。我が国駐在の日本大使が、我がアメリカ合衆国の最後の

 提案に対し、正式な回答を寄せてきたのは、実に彼らの飛行機が大挙して真珠湾

 を襲い、艦隊および基地に対して重大な打撃を与えた1時間後でした。かかる非道

 は断じて許せません。私は国民と共に重大なる決意で立ち上がり、勝利への道を

 歩む所存であります。」 

                                 

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 第二次世界大戦( ヨーロッパ)は防げたか?               

 日中戦争、太平洋戦争は複雑な理由と過程があったが、ヨーロッパの戦争は

 「ヒトラーの起こした戦争」であり、防ぐ機会も多かった。           

 1.1938.9.30 ミュンヘン会談   ヒトラーはチェコスロバキアのズデーデン

 ( 350万人のドイツ人がいた) を要求、英チェンバレン首相・仏ダラディエ首相は

 これを認めた。(宥和政策 ー ヒトラーの要求を受け入れ、戦争を避ける政策)

 しかし、ドイツは、1939.3.15チェコスロバキアを解体し、3.21ポーランドに対し

 ダンチヒの返還を要求、宥和政策の失敗が明らかとなった。          

 ただし、1938年9月のあの時点では、ヒトラーの要求が果てしなく続くとは予想できず、

 宥和政策も100%まちがいとは言えない。                      

 2.1939.8.23 独ソ不可侵条約   ドイツとポーランドの緊張が高まり、

 英仏、独はそれぞれ、ソ連に交渉団を送った。英首相チェンバレンは共産主義国

 ソ連を信用できず、本気で同盟を結ぼうとはしなかった。( 外交特使として外務

 次官補ストラングという小ものを送ったり、軍事使節団首席にドレークスという退役

 海軍大将を選んだ) ソ連スターリンは、英仏は本気で同盟を結ぶ気がないと考え、

 ヒトラーと組み、ポーランドの半分を獲得する道を選んだ。         

 ソ連が全体主義国家で信用できないとしても、「ポーランドを守る」という目的のため

 に、英仏はソ連と同盟を結ぶべきだった。チェンバレンの完全なミスである。   

 スターリンも、反共主義ヒトラーの危険性を考え、英仏との交渉を粘り強く続ける

 べきであった。                                        

 3.1939.9.1 独、ポーランド侵攻   ドイツがポーランドに侵攻すると、

 英仏は9月3日に宣戦布告をしたが、ドイツへの攻撃はしなかった。ポーランド軍は

 2週間で壊滅し、9月末にはポーランドは、ドイツとソ連に分割占領されてしまった。

 開戦当時、西部戦線のドイツ軍は30個師団( まともな戦力を持つのは12個師団)

 これに対しフランス軍は110個師団あり、海軍・空軍でも英仏は独に対抗できた。

 攻撃の決断をしなかった仏ダラディエ首相・英チェンバレン首相のミスである

 この時が、ヨーロッパ中を巻き込む世界大戦を防ぐ最後のチャンスだった。

 第二次世界大戦での非戦闘員死者数は、ソ連1800万人、ポーランド450万人、

 ドイツ350万人、日本300万人にのぼった。( また、ナチスドイツによる虐殺で、

 数百万人のユダヤ人が犠牲となった。)                    

 第二次世界大戦は、死者の数の多さとともに、戦闘で死んだ兵士の数よりも

 一般市民の犠牲者が多かったという、「人類史上最悪の戦争」だった。

 

 シンドラーのリスト(アメリカ映画・監督スティーブン・スピルバーグ)

 ナチスドイツのユダヤ人迫害ー1941年3月クラクフのゲットーへの強制移住、43年3月

 ゲットーの解体とプワシュフ収容所への強制連行(逃げようとした人々はその場で射殺

 される)、収容所での日常的な処刑ー などが描かれている。(アウシュビッツ収容所の

 ガス室虐殺は、直接的には出てこない) 重いテーマであるが、オスカー・シンドラー

 (ドイツ人の工場経営者。最初は金儲けのために賃金の安いユダヤ人を雇うが、ナチス

 の残虐行為を目の当たりにし、自分の工場で働くユダヤ人を救うために、全財産を投げ

 打つ)という人物を主人公にする事によって、作品として十分楽しめる映画となっている。

 それにしても、ドイツというヨーロッパの文明国で、わずか数十年前に、このような虐殺が

 行われた事を思うと、暗澹たる気持ちにさせられる。科学技術は進歩するが、人間や

 人間社会の本質は永遠に変わらないのだろうか。

 日本の軍事力について考える時、「将来、他国の軍隊によって日本人が虐殺される可能性

 もあるし、逆に日本の軍隊が他国の人々を虐殺する可能性もある。」という事を忘れては

 いけないと思う。

 

 徴兵、召集の拡大

 1941年・昭和16年の太平洋戦争開戦時、日本の軍隊は240万人であったが、1944年

 2月末には、398万人になっていた。これは、男子総人口の10%、男子労働人口の17%

 に相当した。

 その後さらに、徴兵年齢が19歳に引き下げられるとともに、兵役義務年限も45歳に延長

 され、1944年10月には徴兵年齢が再度引き下げられて18歳となったため、軍事動員数は

 1944年末536万人、1945年8月719万人に拡大した。

 

 

 大東亜会議 (1943年11月・昭和18年 東京 議長東条英機) 南京政府主席汪兆銘

 タイワンワイタヤコン殿下。満州国国務総理張景恵。フィリピン大統領ホセ・ラウレル

 ビルマ国家主席バーモ。自由インド臨時政府主席チャンドラ・ボース

 (重要な石油資源を持つインドネシアについては、日本は独立を認めなかった。)   

 ホセ・ラウレル 「すべてが結合して一つの強固な組織を作った以上、もはや十億の

 東洋人が自由にして拘束されない権利を獲得することと、自らの運命を形づくる機会を

 得ることを停止ないし遅滞させうる国はどこにもないはずである。」

 バーモ 「私たちは真に共存の大原則の上に正義、平等、互恵に基づいて新しい

 世界を創造しているのであります。どこからみましても、東アジアはそれ自体が

 一つの世界であります。(途中略)私たちは再び私たちがアジア人であることを、

 またアジア人の血を発見しました。そして私たちを取り戻し、私たちにアジアを

 返してくれるものはこのアジア人の血であります。」

 チャンドラ・ボーズ 「イギリスと妥協することは奴隷制度と妥協することを意味

 するのでありまして、私たちは今後絶対に奴隷制度と妥協しないことに決意いたし

 たのであります。(途中略)私たち個人は生きようと死のうと、戦争を生き抜いて

 インドが自由になるのを見ることができようとできまいと、重要なことはインドが

 自由になるという事実であります。」 

    

 ポツダム宣言   1945年7月26日(昭和20年)、米英中三ヶ国の名で、ポツダム宣言

 が発表された。                                       

 1、日本国国民を欺瞞し、世界征服の挙に出させた権力および勢力の永久除去。

 2、平和・安全・正義の新秩序が出来、戦争遂行能力の破砕が確認されるまで、連合国

 が占領する。  3、日本国の主権は、本州・北海道・九州および四国と連合国の指定

 する小島に局限される。  4、日本軍隊の完全武装解除。  5、戦争犯罪人の処罰と、

 民主主義的傾向の復活強化の障害除去。  6、日本経済と産業の維持の保証、

 再軍備産業の禁止。  などの条件をあげ、最後に 「日本国政府が全日本国軍隊の

 無条件降伏を宣言し、且右行動に於ける同政府の保障を提供せんことを要求す。

 右以外の日本国の選択は迅速且完全なる壊滅あるのみ。」と、日本国政府に受諾を

 せまった。                                         

 日本側の最大の関心事である「国体の護持(天皇制の存続)」については、「日本国民

 が自由に表明した意思にもとづいて平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立され

 しだい、連合国の占領軍はただちに日本から撤退する」と、抽象的に述べられただけ

 だった。                                            

 当時日本は、ソ連に「和平仲介依頼」をしていたので、その回答を待つことにし、政府

 の公式見解は発表しなかった。しかし、このままでは士気に関係すると軍部の圧力が

 あり、7月28日鈴木貫太郎首相は「ポツダム宣言は黙殺し、戦争を完遂する。」と発表

 する。この時点で受諾していれば、「広島、長崎への原爆攻撃。ソ連の対日参戦。」を

 防げたとの見方もあるが、「天皇の御聖断」という形をとったとしても、軍部による

 クーデターが起きた可能性が高い。 

                         

 ソ連満州侵攻 (関東軍総司令官山田乙三大将・総参謀長秦彦三郎中将・

 参謀副長松村知勝少将・作戦班長草地貞吾大佐・作戦主任瀬島龍三中佐。

 大本営陸軍部参謀総長梅津美治郎大将・参謀次長河辺虎四郎中将)

 1945年8月8日、ソ連は「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、満州に侵攻した。

 対日参戦によって、領土(南樺太・千島列島)と満州の権益を獲得するのが目的である。

 ソ連軍と日本軍の戦力比は、兵数150万対70万、大砲2万6千対5千、戦車5500対

 160、航空機3400対150と、ソ連軍が圧倒的に優勢だった。国境地帯の日本軍

 守備隊は、決死の反撃をし、ソ連軍を撃退する場面もあったが、時間がたつにつれ

 全滅する部隊が続出する。                                 

 10日、大本営より「関東軍は、ソ連軍を撃破し朝鮮を保衛すべし。作戦の進捗に

 ともなう総司令部の適時転移を許可する。」との命令が下る。11日、新京の関東軍

 総司令部は、朝鮮国境の通化へ移転、軍主力も退却した。(なお、新京在住市民14万

 人のうち、列車で避難できたのは、軍関係家族2万300人、大使館など官関係家族

 750人、満鉄関係家族1万6700人で、一般市民はほとんど列車に乗れなかった。)

 「通化へ退却」という関東軍の行動は、1、満州在留邦人150万人を見捨てる事であり、

 「国民を守る」という軍隊の最も大きな目的の1つを放棄している。2、通化は、陣地

 構築中で通信設備さえできていなかった。ソ連軍を迎撃する場所として、軍事的に

 不適当であった。 という点から、日本陸軍の歴史に大きな汚点を残してしまった。

 ソ連軍は、避難する日本の民間人を虐殺し、占領地域ではソ連兵による多数の暴行、

 略奪があった。(この問題に対し、日本政府は、ロシア政府に謝罪を要求するべきだ

 と思う。)                                            

 ソ連軍は、戦利品として、満州の産業施設の4割をソ連へ持ち去った。また、日本軍

 将兵等数十万人をシベリアに抑留した。1950年に帰国するまで、強制労働によって

 亡くなった人数は、数万人にのぼる。(1993年10月、エリツィンロシア大統領は、この

 非人道的な行為に対し、謝罪の意を表明した。)

                 

 昭和天皇御聖断 (1945年8月10日・昭和20年 御前会議 鈴木貫太郎首相

 東郷外相・米内海相・阿南陸相・豊田軍令部総長・梅津参謀総長・平沼枢密院議長)

 出席者のうち、阿南陸相・豊田軍令部総長・梅津参謀総長が、戦争継続を主張した

 ため結論が出なかった。鈴木首相が天皇の御聖断を仰ぎ、ポツダム宣言受諾が決定

 した。                                             

 「国内の事情と世界の現状を十分考えて、これ以上戦争を続けることは、わが民族を

 滅亡せしめるのみならず、世界人類をいっそう不幸に陥れるものである。私としては

 無辜の国民に、これ以上苦痛をなめさせることは忍びない。すみやかに戦争を終結

 せしめることが世界の平和を回復し、国家を苦難より救う唯一の道だと考える。」

 「今日まで戦場にあって戦死し、あるいは内地にいて、非命に仆れたものや、その遺族

 のことを思えば、悲嘆に耐えないし、戦傷を負い、戦災をこうむり、家業を失った者の

 今後の生活については心配に耐えない。陸海軍の将兵にとって武装解除や保障占領

 ということは耐えがたいことであるのもよくわかる。自分に忠誠を尽くした人たちが戦争

 犯罪人として処刑されるかもしれないと考えると、本当にたまらない。しかし、私は

 明治天皇の三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、耐えがたきを耐え、忍びがたき

 を忍び、涙をのんで、外相が概略述べたところをもとに、連合国の宣言を受け入れる

 という提案に賛成する。」  (日本は、8月15日連合国に無条件降伏。)

 

 昭和天皇マッカーサー元帥 (1945年9月27日 会談) 「将軍、私がここに来たのは、

 政治的、軍事的なあらゆる決定、そして戦争遂行上わが国民が行なった行為に対する

 ただ一人の責任者として、私を、あなたが代表する連合軍の判断にゆだねるためで

 あります。」

 後日マッカーサーは、こう書いている。「彼は、生まれながらにして天皇であった。

 しかし、同時に、生まれながらにして日本の最高の紳士でもある人物と対面している

 のを、私は悟った。」

 

 戦没飛行予備学生の手記ー「雲ながるる果てに(白鴎遺族会編)」より

 神風特別攻撃隊員四名(昭和20年4月、南西諸島にて戦死)の川柳合作

  (予備士官宿舎にて)

  「生きるのは良いものと気が付く三日前」  「後三日、酔うて泣く者、笑う者」

  「雨降って今日一日を生きのびる」  「宿の窓、今日は静かに雨がふり」

  「人魂を見たぞと友の青い顔」  「真夜中に、遺書を書いてる友の背」

  (待機中、指揮所にて)

  「ジャズ恋し早く平和が来れば良い」  「出撃の時間くるまでヘボ将棋」

  (出撃の命下る)

  「夕食は貴様にやると友は征き」  「各々のふるさと向ひて別れ告げ」

  「俺の顔青い色かと友が聞き」  「きん玉はたれてゐるぞと友笑ひ」

  「散る櫻よくぞ男に生れける」  「機上にて涙の顔で笑つて居」

  「父母恋し彼女恋しと雲に告げ」  「黙送の中を静かに特攻機」

  「一編隊離陸の度に花が散り」  「還らぬと知りつつも待つ夕べかな」

 

 

  昭和史から学ぶべき5つの教訓(作家・半藤一利氏。代表作「日本のいちばん

    長い日」「昭和史」「ノモンハンの夏」「ソ連が満州に侵攻した夏」)

  1、国民的熱狂をつくってはいけない。そのためにも言論の自由・出版の自由

    こそが生命である。

  2、最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。

    すなわちリアリズムに徹せよ。

  3、日本型タコツボにおけるエリート小集団主義(例・旧日本陸軍参謀本部

    作戦課)の弊害を常に心せよ。

  4、国際的常識の欠如に絶えず気を配るべし。

  5、すぐに成果を求める短兵急な発想をやめよ。ロングレンジのものの見方を

    心がけよ。

 

 

                日米開戦から敗戦まで                  

            ( 日本 )                 ( 世界 )           

 1941.12.8 真珠湾攻撃。日米開戦。     1914.12.5 独、モスクワ攻略に失敗。  

 1942.5.7 フィリピン米軍降伏。                                 

 1942.6.5 ミッドウェー海戦。日本軍惨敗。  1942.11.2 独、エル・アラメイン放棄。

 1943.2.7 ガダルカナル島から日本軍撤退。 1943.1.31 スターリングラード独軍、降伏。

 1943.11 大東亜会議。             1943.9.8 イタリア、連合国に降伏。  

 1944.7.9 サイパン島日本軍玉砕。      1944.6.6 連合軍、ノルマンディー上陸作戦

 1944.7.22 小磯国昭内閣成立。        1944.8.25 連合軍、パリ解放。       

 1944.10.20 神風特別攻撃隊編成される。                        

 1945.3.10 米軍による東京大空襲。      1945.2 ヤルタ会談。            

 1945.3.25 硫黄島日本軍玉砕。         (ルーズベルト、チャーチル、スターリン )

 1945.4.7 鈴木貫太郎内閣成立。       1945.5.7 独、連合国に無条件降伏。  

 1945.6.23 沖縄、米軍によって陥落。     1945.7月-8月 ポツダム会談。     

 1945.8.6 米軍、広島を原爆攻撃。        (トルーマン、チャーチル、スターリン )

 1945.8.8 ソ連、日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦。                    

 1945.8.9 米軍、長崎を原爆攻撃。                              

 1945.8.15 日本、連合国に無条件降伏。                      

 

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 アジア諸国独立                                           

 中国 共産党が国民政府(蒋介石総統)を破り、1949.10月中華人民共和国(毛沢東首席)

 が成立。国民政府は台湾に逃れ中華民国を作る。 アヘン戦争( 1840-42 )の結果、

 英国に割譲された香港は、1997年7月中国に返還された。          

 朝鮮 北緯38度線を境として分裂、南部をアメリカが、北部をソ連が占領。1948年8月

 大韓民国(李承晩大統領)、9月朝鮮民主主義人民共和国(金日成首相)が成立した。

 インド 1947年8月イスラム教徒居住地域のパキスタン(ジンナー総督)と、インド連邦

 (ネルー首相)に分かれ、イギリス連邦の自治領として発足した。 

 ミャンマー 1948年1月ミャンマー連邦共和国(ウー・ヌー首相)として、イギリスより独立

 ベトナム フランスとベトナム民主共和国(ホーチミン大統領ー共産系)の戦争となり、

 フランスは1949年3月ベトナム国(バオダイ政権)を建国した。1954年7月ジュネーブ協定

 が調印され、ベトナムは北緯17度線を境に南北に分割された。

 ラオス 1949年7月フランス連合内の独立国となる。(シー・サワン・ウォン王) 

 カンボジア 1949年11月フランス連合内の独立国となる。(シハヌーク国王)

 インドネシア 1945年8月インドネシア共和国(スカルノ大統領)の成立を宣言。

 オランダとの戦争となったが、1949年12月オランダからインドネシア連邦共和国へ

 主権委譲された。  

 フィリピン 1946年7月アメリカの承認のもとフィリピン共和国(ロハス大統領)として独立

 

 

 太平洋戦争歴史的必然だったのか?                           

 それぞれの時代に生きる人々が、日々無数の決断を行っている。思った通りの結果が

 出る時もあれば、予想もしない結果が出る時もあるが、その結果に対し新たな決断が

 下され、また新しい結果が生れる。そうやって世の中が動き、歴史が作られる。

 満州事変、日中戦争、太平洋戦争が、避けることの出来ない歴史的必然だったとは

 考えられない。                                         

  ・満州事変を独断で始めた板垣征四郎・石原莞爾らを、陸軍中央が罰していれば。

  ・満州国建設に専心し、河北省への勢力拡大をしなければ。            

  ・蘆溝橋事件の時、華北での支配権強化を企てなければ。             

  ・南京占領の時、中国側が受け入れ可能な和平条件を提案してれば。     

  ・日独伊三国軍事同盟を結ばなければ。                        

  ・南部仏印進駐を行わなければ。                            

  ・英、蘭とだけ戦い、アメリカへの宣戦布告をしなかったら。              

  ・対米開戦の時期を、「独が対ソ戦で勝利するのを見極めてから」としておけば。

 その時々の誤った決断、あるいは必要な決断を先送りしたことが、ついにはアメリカとの

 全面戦争を引き起こしてしまった。                              

 ( ただし、日本が満州国建設に専心し、日中戦争・太平洋戦争を避けたとしても、

 何十年か後には、満州国は日本から独立するか、中国に復帰しただろう。) 

 

 勝利のため、自国民を犠牲

 勝利のために、自国の一般市民を犠牲にしたのは、ナチスドイツ・共産ソ連・軍国日本

 だけではない。 民主国の英国でも、それは同じであった。第二次世界大戦中、英国は

 ドイツの暗号を解読していたので、1940年11月独空軍が英国のコンベントリー市を

 無差別爆撃することを、事前に知っていた。しかし、英首相チャーチルは、「暗号解読」

 の秘密を独に感づかれるのを防ぐため、コンベントリー防衛措置をとらなかった。

 そのため、死者550名、重傷者850名、ケガ人4000名の犠牲が出た。

 国家の最重要目的である「国民の命を守る」ということより、「勝利」が優先されるー

 それが戦争」なのだろう。

 

 軍産複合体への警告 (1961年1月17日、 アイゼンハウアー米大統領

 任期終了時にアメリカ国民へ警告)                           

 「軍産複合体の経済的、政治的、そして精神的とまでいえる影響力は、すべての市、

 すべての州政府、すべての連邦政府機関に浸透している。我々は一応、この発展の

 必要性は認める。しかし、その裏に含まれた深刻な意味合いも理解しなければならない。

 (中略)軍産複合体が、不当な影響力を獲得し、それを行使することに対して、政府も

 議会も特に用心をしなければならぬ。この不当な力が発生する危険性は、現在、存在

 するし、今後も存在し続けるだろう。この複合体が、我々の自由と民主的政治過程を

 破壊するようなことを許してはならない。」                          

 (アイゼンハウアー  1953.1ー1961.1アメリカ大統領。共和党。第二次世界大戦の

 ヨーロッパ戦線で、連合国軍最高司令官。1950−1952NATO軍最高司令官。)

 戦後、日本は武器輸出を禁止してきた。もし解禁すれば、日本企業は莫大な利益を

 あげただろう。武器輸出で儲けなかったことを、日本人として誇りに思う。

    

 ケネディからの伝言

 (1963年6月西ドイツのフランクフルト市議会にて、米大統領の演説)

 「われわれの使命は、自由と正義に立脚した新しい社会秩序を創り出すことにある。

 それは人間が己の運命の支配者であり、国家が国民の僕として奉仕し、老若男女を

 問わずすべての者が、彼らとその子孫のためによりよい生活を分かち合えるような

 社会秩序である。われわれの現在の政策目標はまさにここにある。(中略)

 そのような平和は今日、明日には訪れまい。希望に対する障害は大きくかつ強力である。

 しかし、平和に満ちた世界という一大目標は、われわれがこれから下さねばならない諸々

 の決断の導き役となり、われわれの任務遂行に輝きを与えることになろう。

 かくして、われわれはみな理想を追い、夢を追う。この世代が理想と夢を過去に捨て去り、

 目的感や決意を敵に譲ってしまったと言わせしめてはならない。今ここで未来を侮るには、

 われわれはあまりにも遠くの道のりを歩いてきた。あまりにも多くの犠牲を払ってきた。

 最後にわれわれはゲーテが言った”人類が知り得た最高最善の叡智は、自由と存在

 それを日々新たにかち取る者のみが受けるに値するということを悟ったことにある”という

 言葉を一時たりとも忘れるようなことはすまい」

 (1963年9月テレビ記者会見にて、「ベトナム問題」に対してコメント)

 「私はサイゴン政府が国民の支持を得るためにより大きな努力をしない限り、この戦争に

 勝てるとは思えない。最終的にはこれは彼らの戦争である。勝つか負けるかは彼ら自身

 にかかっている。われわれは軍事顧問団を送り、武器を送り、彼らを手助けすること

 できる。しかし、この戦いーベトナム国民対共産主義者の戦いにおいて実際に勝たねば

 ならぬのは彼ら自身なのだ。」

                            

 平和なときの平和論(山本夏彦「毒言独語」中公文庫 より)

 「平和なときの平和論ーと聞いただけで、読者は私が何を言いたいのかお分りだと

 思う。言葉というものは電光のように通じるもので、それは聞くほうがその言葉を

 待っているからである。すんでのことで自分も言おうと、なかば口をあけている

 ところへ言われたから、たちまち分るのである。その反対に思ってもいないことなら、

 いくら上手に言われても分らない。(途中略)                     

 ーたとえば日露戦争の前の平和な時代に、平和を説くのは必ずしもむずかしくない。

 だれでも言うことは可能である。けれども、戦争になりそうになったときに、平和を

 唱えるのは危険である。だから、次第に唱えなくなる。いよいよ戦争になって、なお

 平和を説くのは命がけである。八方から石を投げられる。石を投げるのは

 ほかでもない、あの平和なとき平和を唱えた者どもである。           

 これだけのことを委曲をつくして言っても、分らない人には分らない。分らないのは

 それが平和なときに平和を説く者と、その同類だからである。もしこれが分ったら

 平和なときに平和を説くことが出来なくなる説を、どうして彼らが分るだろう。」

 

 明治憲法日本国憲法                              

 大日本帝国憲法 1890年(明治23)11月29日施行               

 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス                          

 第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム               

 第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス           

 第20条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス        

 第55条 1、国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス             

       2、凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス

 日本国憲法 1947年(昭和22)5月3日施行                     

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚

 するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を

 保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から

 永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する

 権利を有することを確認する。                            

 第一章 天皇   第1条「天皇の地位・国民主権」   天皇は、日本国の象徴であり

 日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 第二章 戦争の放棄   第9条 「戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認」     

 1、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる

 戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久

 にこれを放棄する。                                     

 2、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の

 交戦権は、これを認めない。                                

 第五章 内閣   第68条「国務大臣の任命及び罷免」  1、内閣総理大臣は、 国務

 大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。

 2、内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。

 

 戦争プロパガンダ10の法則(アンヌ・モレリ著。草思社 より)

 1、「われわれは戦争をしたくない」  2、「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」

 3、「敵の指導者は、悪魔のような人間だ」  

 4、「われわれは領土や覇権のためでなく、偉大な使命のために戦う」

 5、「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」

 6、「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」

 7、「われわれの受けた損害は小さく、敵に与えた損害は大きい」

 8、「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」  

 9、「われわれの正義は神聖なものである」

 10、「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」

 

 永遠平和のために(カント著作より)

 「各国家における市民的体制は、共和的でなければならない

 第一に、社会の成員が(人間として)自由であるという原理、第二に、すべての成員が

 唯一で共同の立法に(臣民として)従属することの諸原則、第三に、すべての成員が

 (国民として)平等であるという法則、この三つに基づいて設立された体制 − これは

 根源的な契約の理念から生ずる唯一の体制であり、この理念に民族の合法的なすべて

 の立法が基づいていなければならないのであるが、こうした体制が共和的である。

 それゆえ、この体制は、法にかんして、それ自体があらゆる種類の市民的組織の

 根源的な地盤となる体制である。

 「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない

 なぜなら、いったいなにが国家にそうした干渉の権利を与えることができるというので

 あろうか。一国家が他国家の臣民たちに与える騒乱の種のたぐいがそれである、という

 のであろうか。だが一国家に生じた騒乱は、一民族がみずからの無法によって招いた

 大きな災厄の実例として、むしろ他民族にとって戒めとなるはずである。(途中略)

 一つの国家が国内の不和によって二つの部分に分裂し、それぞれが個別に独立国家

 を称して、全体を支配しようとする場合は、事情は別かもしれない。その際、その一方

 に他国が援助を与えても、これはその国の体制への干渉とみなすことはできないで

 あろう(その国は、その時無政府状態にあるからである)。 だがこうした内部の争いが

 まだ決着していないのに、外部の力が干渉するのは、内部の病気と格闘しているだけ

 で、他国に依存しているわけではない一民族の権利を侵害するもので、この干渉自体

 がその国を傷つける醜行であるし、あらゆる国家の自律を危うくするものであろう。

 

 平和祈念展示資料館(総務省委託・新宿住友ビル33階・入館無料)

 平和祈念展示資料館は、さきの大戦における、兵士、戦後強制抑留者および海外からの

 引揚者の労苦(以下、「関係者の労苦」)について、国民のより一層の理解を深めて

 もらうため、関係者の労苦を物語る様々な実物資料、グラフィック、映像、ジオラマなどを

 展示しています。

 https://www.heiwakinen.go.jp/

 

  

 

                  敗戦から日中国交正常化まで 

          (日本)                       (世界)         

 1945.8.15 日本、連合国に無条件降伏。       1945.10 国際連合発足。 

 1946.11.3 日本国憲法公布。(吉田茂内閣)     1947.3 ソ連の東欧共産化に対し、米

 1948.11.12 極東軍事裁判、判決下る。        トルーマン大統領、封じ込め政策を発表

 1950.8   警察予備隊設置。              1949.10 中華人民共和国成立。

 1951.9.8  サンフランシシコ平和条約(48ヶ国と)。 1950.6 朝鮮戦争勃発。(1957.7停戦)

 1954.7  自衛隊発足。                  1954.4 ジュネーブ会議(「雪どけ」の時代)

 1956.10.19 日ソ共同宣言調印。(鳩山一郎内閣)   1960年代 中ソ対立へ。

 1960.1.19 新日米安保条約調印。(岸信介内閣)   1962.10 キューバ危機。(ソ連・

 1960.9  所得倍増計画(池田勇人内閣)        フルシチョフ首相。米・ケネディ大統領)

 1965.6.22 日韓基本条約調印(佐藤栄作内閣)   1965.2 米、北ベトナム爆撃を開始。

 1972.5.15 沖縄、アメリカより返還。          1968.8 ソ連軍・東欧軍、チェコに軍事介入

 1972.9.29 日中共同声明に調印。(田中角栄内閣) 1973.1 米軍、ベトナム全土より撤退。

 

 立花隆の助言(1940−2021年。ジャーナリスト、評論家。代表作「田中角栄研究」

 「日本共産党の研究」「宇宙からの帰還」「脳死」「臨死体験」)

 (これから日本社会を生きていく人への助言)

 「危機を察知し、小さな失敗のうちに、大きな失敗の芽を摘んでいくことです。そのためには、

 人間の失敗と愚行の集積でもある世界史を学ぶこと。世界の中の日本の位置を理解し、

 日本人が独善的にならないためにも大切なことです」

 (「二十歳の十箇条」)

 「10、失敗は必ず起こる。それを隠さず、それに負けない強さを持て

 

 

 東京電力福島第一原発事故菅直人首相。吉田昌郎所長

 (2011年3月15日、菅直人首相の発言)

 東電が福島第一原発から全面撤退すると考えた菅首相が、東京電力本店に乗り込んだ際の発言

 「被害が甚大だ。このままでは日本国滅亡だ」 「撤退などあり得ない。命懸けでやれ」 「プラントを

 放棄した際は、原子炉や使用済み燃料が崩壊して放射能を発する物質が飛び散る。チェルノブイリ

 の二倍三倍にもなり、どういうことになるのか皆さんもよく知っているはず」

 「撤退したら東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ」 「六十になる幹部連中

 は現地に行って死んだっていいんだ。俺も行く」

 「無駄になってもいい。金がいくらかかってもいい。必要なら自衛隊でも警察でも動かす

 「原子炉のことを本当に分かっているのは誰だ。何でこんなことになるんだ。本当にわかっている

 のか」

 

 (東京電力福島第一原発 吉田昌郎所長の証言)

 「(2号機は)完全に燃料露出しているにもかかわらず、減圧もできない、水も入らないという状態が

 来ましたので、私は本当にここだけは一番思い出したくないところです。ここで何回目かに死んだと、

 ここで本当に死んだと思ったんです」

 「3号機や1号機は水入れていましたでしょう。(2号機は)水入らないんですもの。水入らないという

 ことは、ただ溶けていくだけですから、燃料が。燃料が溶けて1200度になりますと、何も冷やさない

 と、圧力容器の壁抜きますから、それから、格納容器の壁もそのどろどろで抜きますから、チャイナ

 シンドロームになってしまうわけですよ。燃料分が全部外に出てしまう。(途中略)放射性物質が全部

 出て、まき散らかしてしまうわけですから、われわれのイメージは東日本壊滅ですよ」

 「細野(豪志首相補佐官)さんに電話して、『プラントはものすごい危ない状態です。ぎりぎりです。

 水が入るか入らないか、賭けるしかないですけれども、やります、ただ、関係ない人は退避させる

 必要があると考えています。今、そういう準備もしています』という話はしました」「全員撤退して身を

 引くということは言っていませんよ。私は残りますし、当然操作する人間は残すけれども、最悪の

 ことを考えて、これからいろんな政策を練ってくださいということを申し上げたのと、関係ない人間は

 退避させますからということを言っただけです」

 

 前天皇陛下の戦争と平和に関するお言葉

 (2018年8月15日全国戦没者追悼式)

 「本日、『戦没者を追悼し平和を祈念する日』に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦に

 おいて、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

 終戦以来既に73年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられ

 ましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。

 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、

 戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に

 対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」

 (2018年12月20日、23日の85歳の誕生日に先立って、記者会見)

 「先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と

 国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこの

 ことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうと

 していることに、心から安堵しています。

 

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