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 欧米列強によるアジア植民地化 / 外交の秘訣ーロシア軍艦を引き払わせた方法

 日清戦争 / 列強の中国侵略 / 日露戦争 / 韓国併合 / 第一次世界大戦

 日清戦争から第一次世界大戦まで(年表) / 山東出兵と張作霖爆殺事件

 大恐慌と戦争景気 / 山東出兵から満州事変まで(年表) / 満州事変

 石橋湛山の満州論 / 二・二六事件 / 軍部大臣現役武官制の復活

 2・26事件から真珠湾攻撃まで(年表) / 日中戦争 / 日中戦争と思想・言論の弾圧

 英国王のスピーチ / 日独伊三国軍事同盟と日ソ中立条約

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 欧米列強によるアジア植民地化                        

 半植民地化する中国                                    

 清の欽差大臣林則徐がアヘンの密貿易を禁止したところ、アヘンで利益をあげていた

 イギリスは、1840年アヘン戦争をおこし、広東などを占領し南京を攻撃しようとした。

 清は屈服し、1842年の南京条約で、香港の割譲、賠償金2100万ドルの支払い、広東・

 アモイ・上海など5港の開港をさせられ、アヘン貿易も容認せざるを得なかった。

 1843年虎門寨追加条約で、治外法権・関税自主権の放棄を認めさせられ、1844年

 同様の権益を、アメリカフランスにも認めた。                     

 1856年アロー号事件(英の商船アロー号が、広州で清の官憲に海賊容疑で検問を

 うけ、乗組員が逮捕された事件)がおこると、イギリスはフランスと共同出兵し、広州

 を占領、1858年天津条約を結んだ。条約批准が難航して戦争が再開、英仏連合軍は

 北京を占領、1860年北京条約が結ばれる。清は、南京・天津など11港の開港、外国

 公使の北京駐在を認め、イギリスに九龍半島南部を割譲、ロシアに沿海州を割譲する。

 イギリス                                         

 インドー1857年東インド会社の傭兵(セポイ)は、インド大反乱(インド独立戦争)をおこし、

 ムガル皇帝の復活統治を宣言し、デリーを占領したが、結局イギリスに鎮圧された。

 イギリスは、 翌年ムガル帝国を滅ぼし、1877年にはビクトリア女王がインド皇帝を兼ねる

 インド帝国を成立させる。                                      

 ビルマーイギリスは、アラウンパヤー朝を3回のビルマ戦争(1824年ー1886年)で破り、

 ビルマを1886年インド帝国に編入する。                          

 マレー半島ー1819年イギリスは、ジョホール王国よりシンガポールを買収。ジャワ戦争

 (1825年ー30年)でオランダからマラッカを奪い、マライ半島を保護領とし、1895年に

 マライ連邦を形成する。                                   

 フランス                                    

 ベトナムー1858年フランスはスペインと共同出兵してサイゴンを占領し、1862年、

 第1次サイゴン条約でコーチシナ東部3省の割譲を阮朝に認めさせた。1883・84年

 のユエ条約でベトナムを保護国とし、ベトナムを属国と主張する清を清仏戦争で破り、

 1885年の天津条約でフランスの支配権が確立した。1887年仏領インドシア連邦成立。

 カンボジアー1863年フランスが保護国化、1887年フランス領インドシア連邦。  

 ラオスー1893年フランス領インドシア連邦に編入される。               

 オランダ                                        

 インドネシアー1825年ジャワ島住民による大反乱(ジャワ戦争)がおこったが、オランダ

 は、これを鎮圧。1873年スマトラ島南部・アチェー王国の抵抗戦争を鎮圧して王国を

 征服し、1904年にオランダ領東インドが成立。                      

 アメリカ                                            

 ハワイー1810年カメハメハ大王によって統一されたハワイ王国には、1840年代アメリカ

 のさとうきび業者が本格的に入植し、ハワイのアメリカへの併合を推進した。1893年、

 白人によるクーデターがおこり、女王は退位。翌年、ドール大統領のハワイ国が成立

 したが、1898年米西戦争でスペインに勝利したアメリカにより併合された。     

 フィリピンー1898年米西戦争の結果、アメリカの植民地となる。

 

 外交の秘訣ーロシア軍艦を引き払わせた方法(勝海舟「氷川清話」より)

 「外交家の秘訣は、彼をもって彼を制するということがある。文久の昔の話だが(1861−1863)

 ロシアの軍艦が対馬にやってきて、海岸を測量したり、山道を切り開いたり、畑地を作ったり、

 それは実に傍若無人のふるまいをしたのだ。ロシアの軍艦は、幾回もやって来たが、一番最後

 に来たのなどは、粗末ながらも兵舎めいたものを建てて、容易に引き上げる模様がなかった。」

 「さあここだ。対馬は、このとき事実上すでに、ロシアのために占領せられたも同様であった

 のだ。つまりこういう場合こそ、外交家の手腕を要するというものだ。」

 「ところでおれは、この場合に処する一策を案じた。それは当時長崎におった英国公使

 (オールコック)というのは、至極おれが懇意にしておった男だから、内密にこの話をして

 頼みこみ、また長崎奉行からも頼みこみました。公使は、直ちに北京駐在英国公使に掛け

 合い、その公使はまた露国公使に掛け合って、堂々と露国の不条理を詰責して、訳もなく

 ロシアをしてとうとう対馬を引き払わせてしまった。これがいわゆる彼によりて彼を制する

 いうものだ。それを日本が正面から単独でロシアへ談判したものなら、ロシアはなかなか

 ”うん”とは承知しなかったであろうよ。」

 (ただし、勝海舟は簡単に解決した様に話しているが、実際は1863.7月イギリス東インド艦隊

  の2隻が対馬に航行してロシアに退去をもとめ、翌8月ロシア軍艦が対馬を去っている。)

 

 日清戦争                                       

 (1894−1895・明治27年ー28年) 伊藤博文内閣。朝鮮をめぐる日清の主導権

 争い。伊藤首相は清国との勢力均衡を出兵の目的と考えていたが、川上操六陸軍

 参謀次長と陸奥宗光外務大臣が、戦争へと持っていった。日本が朝鮮を狙ったのは、

 朝鮮をロシアの南下に対する防衛線として考えていたためである。日本は勝利し、

 1、朝鮮の支配権。 2、賠償金3億円。 3、遼東半島・台湾・澎湖島 を獲得するが、

 ロシア・フランス・ドイツの三国干渉に応じて、遼東半島を清に返還した。

 この後‘臥薪嘗胆‘というスローガンが広まった。

                                             

 列強の中国侵略   日清戦争で清の弱さを知った西欧列強は、清から利権を獲得し、

 半植民地化していった。                                    

 ロシア  1898年、旅順・大連を租借し、南満州鉄道の敷設権を獲得。

 (ロシアの脅威に対抗するための日清戦争であったが、日本の勝利が、結果的には

 ロシアの南下を進めてしまった。)

 ドイツ  1898年、膠州湾を租借し、山東半島の鉄道敷設権・鉱山採掘権を獲得。

 フランス  1898年、広州湾を租借。                          

 イギリス  1898年、九竜半島と、山東半島北部の威海衛を租借。        

 アメリカ  1898年、門戸開放・機会均等・中国領土保全を提議し、中国分割への

        割込みをはかる。                                

 西欧諸国・日本の侵略に対し、農民や都市民衆による「義和団の乱」が起こり、1900年

 6月(明治33年)北京の列国公使館を包囲した。清国政府もこれを支持、列国に宣戦布告

 したため、米・英・露・独・仏・伊・墺・日の8ヵ国は出兵し、これを降伏させた。( 北清事変)

 翌1901年9月、北京議定書が締結され、列国は賠償金4億5千万円を獲得、護衛兵の

 北京・天津駐屯を認めさせた。

                                 

 日露戦争(1904−1905・明治37年ー38年) 「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ

 直ニ出動シ之ヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレトモ浪高シ」 「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ、

 各員一層奮励努力セヨ」(1905.5.27 日本海海戦)                     

 桂太郎内閣。満州軍総司令官大山巌・参謀児玉源太郎。連合艦隊司令長官東郷平八郎

 参謀秋山真之。日本は戦争を避けたかったので、「日本は大韓帝国に権益を持ち、ロシアは

 満州に権益を持ち、たがいに犯さない。」という提案をしたが、ロシア(皇帝ニコライ二世)が

 韓国の北半分の中立化を要求したため戦争となった。                     

 日本は日英同盟(1902-1921)を結んでおり(英国は、満州へ向かうロシアバルチック艦隊

 が途中の港を利用できないよう、各国へ圧力をかけた)、また1905年アメリカ大統領

 ルーズベルトに調停を依頼するなどの外交活動を行った。旅順・奉天会戦・日本海海戦

 で、日本は勝利。(長期戦になれば勝ち目がないため、明石元二郎陸軍大佐が、ロシア

 の国内撹乱工作を行なった。工作費百万円は、開戦前の国家予算2億数千万の0.3%に

 なる。) 革命気運の高まりという国内事情もあり、ロシアはポーツマス条約を受け入れ、

 満州から撤兵した。日本は、関東州租借地・東清鉄道南満州線・北緯50度以南の樺太島

 を得たが賠償金をとることができなかったため、講和反対の市民による「日比谷焼打事件」

 が起こった。(日露戦争における日本の戦死者は、8万4千人にのぼる。)

 この戦争は、有色人の国が初めて白人の大国に勝った戦争であり、西欧諸国の植民地と

 なっている有色人の人々に、大きな影響を与えた。                      

 1905年アメリカ鉄道王ハリマンが、満鉄共同経営を申し込んだが、日本は南満州の独占

 支配を目指し、これを拒否した。もし受け入れていたら、歴史はどう変わっただろう。

  

    秋山参謀   東郷司令長官   大山総司令官   児玉参謀    乃木将軍

 

 韓国併合(1910-1945・明治43年ー昭和20年) 桂太郎内閣。日露戦争末期アメリカ・

 イギリスは、日本の韓国植民地支配を承認し、ロシアもポーツマス条約でこれを認めた。

 統監伊藤博文の暗殺後併合の動きが早まり、1910年併合条約が結ばれた。日本の

 植民地支配は近代化というプラスの面もあったが、1930年代に入ると韓国語抹殺、

 日本語使用強制、創氏改名という民族の誇りを傷つける政策を行ったため、朝鮮民衆

 の深い怨みをかってしまった。                               

 

 

 第一次世界大戦(1914−1918・大正3年ー7年) 大隈重信内閣(1916年10月から、

 寺内正毅内閣)。バルカン半島をめぐる争いから、ドイツ・オーストリア・ハンガリー・トルコ

 対ロシア・フランス・イギリスの世界戦争が勃発。日本は、日英同盟を重視する加藤高明

 外務大臣の意向でドイツに宣戦布告、ドイツ領青島を占領。1915年袁世凱に対華21ヶ条

 要求( 山東省のドイツ権益の譲渡。旅順、大連、満鉄安奉線の租借権の99年延長)を

 認めさせた。1917年、ドイツの無制限潜水艦戦宣言によりアメリカが参戦し、ロシア革命で

 ソビエト連邦が誕生した(ソ連は1918年3月ドイツと単独講和)。               

 1918年11月、社会民主党エーベルトらによって臨時政府が組織され、皇帝ベルヘルム2世

 はオランダに亡命し、ドイツは共和国となった。臨時政府は11月11日連合国との休戦

 条約を調印、第一次世界大戦は終わった。                         

 1919年1月、戦勝国である連合国27ヶ国のパリ講和会議が開かれ、6月28日ドイツとの

 間でベルサイユ条約が結ばれた。1.アルザス・ロレーヌ2州をフランスへ。2.ザール

 炭田地方を国際連盟管理へ。3.モレネ・オイペン・マルメディ3地方をベルギーへ。

 4.北シュレスビヒをデンマークヘ5.ポーゼン・ポーランド回廊をポーランドへ。

 6.ダンチヒを国際連盟管理とし、港使用権をポーランドへ などの領土変更が行われた。

 ドイツは、領土の13.5%、人口の10%、鉄鉱の75%、石炭の30%、耕地の15%を失った。

 また、ライン川の左岸、右岸50キロを武装禁止とし、左岸ラインラントに15年間連合国が

 駐留することとなった。ドイツの全植民地放棄も決められ、日本は、山東省の旧独権益

 獲得を認められ、赤道以北の旧独南洋諸島(トラック諸島)を委任統治領とした。   

 ( 賠償金は、1921年1320億マルクと決められたが、世界恐慌で支払い不能となったため、

  1932年7月ローザンヌ会議で支払い免除となった。)

                                                   

                日清戦争から第一次世界大戦まで

             (日本)                     (世界)     

 1889.2.11 大日本帝国憲法発布(黒田清隆内閣)  1850-64 中国で太平天国運動

 1890.11 第1回帝国議会(山県有朋内閣)       1877 英植民地インド帝国成立

 1894.8  日清戦争(-95.4 伊藤博文内閣)      1887 仏領インドシナ連邦成立

 1902.1  日英同盟(-21.5 桂太郎内閣)        1898 米西戦争(米、ハワイ領有)

 1904.2  日露戦争(-05.9 桂太郎内閣)        1904 蘭領東インド植民地成立

 1910.8  韓国併合(桂太郎内閣)            1912.1 中華民国成立(臨時大統領孫文)

 1913.6  軍部大臣現役武官制の廃止(-36.5 山本権兵衛内閣・陸軍大臣ー木越安綱中将)

 1914.8  第一次世界大戦(大隈重信内閣)  独・墺・トルコ 対 露・仏・英・日・伊・米

 1917.11 ソビエト政権誕生  1918.1 プロレタリア独裁を確立  1918.3 ソ連、独と単独講和

 1919.6.28 ベルサイユ条約調印  1920.1 国際連盟成立  1922.2 ワシントン海軍軍縮条約

 

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 山東出兵張作霖爆殺事件          

 1927年5月(昭和2年)、江南一帯をおさめた蒋介石の国民党軍(南京政府)は、満州・

 北支の張作霖に対し北伐の軍をすすめ、徐州を占領。

 田中義一首相(政友会、陸軍出身)は、在留民保護を名目に、5月28日旅順の兵二千名

 を青島に出動させた(第一次山東出兵)。日本に続き、英は千七百名、米は三千名、仏は

 千名を天津に出兵させた。この頃、蒋介石の南京政府と、汪精衛の国民党(武漢政府)の

 合体話がすすみ、北伐は停止された。8月30日、田中内閣は撤兵を表明、9月5日、

 新・南京政府(首席汪精衛、蒋介石は下野)ができる。                     

 同年9月、蒋介石は日本に亡命、田中首相や政友会の実力者森格と会談した。会談では、

 「日本は、国民党が共産党と分離するならば、国民党の中国統一を認める。」

 「国民政府は、満州に対する日本の特殊地位と権益とを承認する。」

 ということで、意見が一致したと言われている。                       

 蒋介石不在の南京政府は、派閥抗争が続き、広東の共産党暴動の責任をとって、汪精衛

 はフランスへ亡命する。1928年1月、蒋介石が首席となり、ふたたび北伐を開始。4月1日、

 徐州占領、済南を包囲する。4月19日、日本政府は、天津と内地から兵三千名を済南に

 出動させた。(第二次山東出兵)  国民政府軍が近づくと、張作霖系の東北軍は、一戦も

 交えず撤退し、5月1日、国民政府軍が済南に入城。5月3日、国民政府軍の一部が略奪を

 行い、日本軍と戦闘が起きた。死者の数は、日本軍十名、在留邦人十数名。(済南事件

 5月4日夜、戦闘は止んだが、5月8日、日本政府は兵一万五千名を青島に出動させ、済南

 を総攻撃、占領した。(第三次山東出兵)                           

 蒋介石は、済南から撤退、迂回して北京にせまった。「張作霖軍が国民政府軍に敗れ、

 満州に敗走する事態になれば、国民政府軍は満州まで進出してくる。張作霖を北京から

 奉天に引き揚げさせ、蒋介石を北京に無血入城させれば、張作霖の満州支配は続き、

 日本の権益も守れる。」と田中首相は考えた。張作霖に対して奉天にもどるよう勧告し、

 従わない場合日本軍は援助しないと告げる。息子の張学良・幹部の楊宇霆も撤退を主張

 したため、張作霖は、6月3日夜北京を去るが、4日朝奉天近くで列車と共に爆殺されて

 しまう。(張作霖爆殺事件)                                    

 事件の首謀者は、関東軍高級参謀河本大作大佐で、「張作霖は日本軍の援助でその地位

 を得たのに、排日的な態度がみられる。国民政府軍のしわざに見せかけて暗殺し、その

 混乱に乗じて軍を進め、満州を日本の支配下におけばいい。」と考えたためである。

 張学良は、事件が関東軍の仕業であるとわかっていたが、混乱を避けるため軍を動かさ

 なかった。同年12月、張学良支配下の東北三省は、南京政府のもとに入る。張学良は、

 満州の実質支配を続けるが、満州における排日の動きは激しくなっていく。    

 田中首相は、関係者を軍法会議によって厳罰に附し、真相を公表しようと考えたが、陸軍

 や政友会首脳の強硬な反対にあった。翌年1929年6月26日、田中内閣は「事件に日本人

 は関係してない。警備上の責任を問い、行政処分を行う。(関東軍司令官村岡長太郎中将

 ー予備役編入、参謀河本大作大佐ー停職)。」と発表した。田中首相は、行政処分の件を

 天皇に上奏するが、真相を知っている天皇より叱責をうける。田中内閣は総辞職し、

 7月2日、浜口雄幸民政党内閣が成立する。                          

 この時、軍首謀者を、厳正に処分していれば、のちの満州事変はなかったかも知れない。

 

 大恐慌戦争景気   1929年10月24日(昭和4年)、アメリカで株の大暴落が起き

 (暗黒の木曜日)、1930年6月17日高率関税法ホーリイ・スムート法が成立した。これに

 対抗して英帝国もブロック経済化をしたため、世界大恐慌となった。

 「お弁当のない子供達 ー 深刻な不景気は数十万の失業者を生み、一般の生活戦線を

 脅かしつつあるが、その結果は無心な小学児童もこの渦巻の中に巻込もうとしている。

 その一例として最近めっきり栄養不良児の増加した事で、文部省の調べによると百分の

 五は栄養不良にかかっているとのことである。その家庭を調べて見ると三度の食事は

 おろか二度の食事さえろくろく摂っていないという憐れな情景である。(途中略)

 板橋第三小学校ではお昼の弁当を持って来ない子供が非常に多く、学校では一食七銭

 の握り飯を毎日12人分づつ給与しているが、これだけでは不足がちなので一番腹の

 空いている者から分配するそうである。しかもこのお弁当をもらった子供の中には

 握り飯を半分だけ食って、残りは竹の皮につつんで家に持ち帰るものがあるが、そうした

 子供等の答はこうである。 『家では妹が腹がへって泣いていますから半分やるのです』

 と。」(朝日新聞1930.5.13)                                   

 小学校の先生達も、市町村の税収減少・財政破たんの影響を受け、1932年6月の調査

 では、全国7384の小学校のうち557校が棒給未払いであった。           

 農村は、さらに悲惨な状況であった。 1、主要農産物米・まゆの価格暴落 ー 朝鮮・

 台湾で、米の増産が進み、国内生産高六千万石に対し、一千万石の輸入米が入って

 きた。まゆは、製品の80%近くをアメリカに輸出していた製糸業が、アメリカの不況の

 ためにまったく不振に陥ったことが大きかった。 2、農産物価格が、暴落したにも

 かかわらず、村税(所得税ではなく、一戸ごとに割り当てられる税金)や小作料は安く

 ならなかった。 3、都会で就職していた農家の次男三男や娘が、失業して農村に

 戻ってきた。(従業員50人以上の工場・鉱山に対する調査で、1931年には、工場では

 66万人の解雇者のうち28万人が、鉱山では10万人の解雇者のうち2万人が帰農

 している。)                                           

 「職を失ってその日の糧にも窮し、都会の生活から見放された失業者の群が、郷里に

 帰るにも旅費がなく、とぼとぼと東海道を歩いて行く者が、今夏以来めっきりと増えて

 きた。」(朝日新聞1930.9.3) 「岩手県下三万人、青森県下十五万人、秋田県下一万

 五千人、北海道二十五万人、計四十五万人の農民達はこの冬の氷と雪に鎖され

 ながら、餓死線上に立たされているという。(途中略)百円から三百円ぐらいの金で、

 私娼に公娼に売られて行く娘の例はザラにあるのであった。」(中央公論 1932.2月号 )

 この大恐慌が、軍人によるクーデター(五・一五事件二・二六事件)や、満州事変

 へとつながって行った。                               

 ( また、ドイツでは、1929年から32年の間に工業生産が4割減少、失業者は29年189万人、

 30年308万人、32年558万人と増加した。恐慌による社会不安の中で、「ドイツ民族の復興」

 「反ユダヤ」「反共産主義・労働組合」「反ワイマール共和政」「反ベルサイユ体制」を

 かかげるナチス( 国家社会主義ドイツ労働者党 ・党首アドルフ・ヒトラー)が勢力を拡大し、

 1932年7月第1党となり、1933年1月30日ヒトラーが首相となった。)         

 満州事変による特需で、農民や労働者の生活が良くなったため、日本国民の大多数は

 戦争を支持した。( 1931年12月犬養内閣が金解禁を廃止、1ドル2円が1ドル4円70銭と

 なり輸出ブームとなったが、この時期が満州事変と重なっため、戦争が景気を良くすると

 いう印象がより強く広まった。) 1937年2月22日(昭和12年)、東京株式市場の取引高は

 史上最高の142万株を記録した。                            

 しかし、日中戦争、太平洋戦争と戦争が拡大すると、食糧・生活物資の欠乏が深刻と

 なった。( 例えば、1940.1.14、阿部信行内閣は「物資不足・物価高騰」の批判で総辞職。

 1941年4月には、コメの配給制が始まる。)また、1943年10月文系大学生の出陣学徒

 壮行会が行われるなど、多くの人々が召集され戦場へと出征して行った。     

 日中戦争、太平洋戦争、二つの戦争で、日本の戦死者は、軍人・軍属210万人、

 一般市民300万人にのぼった。(この数字は、1940年日本人口7200万人の約7%

 となる。)                                           

               「日本の失業者数」                       

  1929年  1930年  1931年  1932年  1933年  1934年 
失業者数(千人)   294  367  413  489  414  374
失業率(%)   4.3   5.2   5.9   6.9   5.7   5.0

               「各国の工業生産性指数」                  

   1913年   1929年   1930年   1931年   1932年   1933年 
 アメリカ    100   170.2   137.3   115.9    91.4   110.2 
 イギリス   100    99.1    91.5    83.0    82.5    85.2
 フランス   100   139.0   140.0   124.0    96.1   107.6
 ドイツ   100   113.0    99.8    81.0    67.6    75.4
 ソ連   100   194.3   252.1   314.7   359.0   391.9  

                                          

                山東出兵から満州事変まで           

            (日本)                 (世界)

 1927.4.20 田中義一内閣成立。         1927.4 蒋介石、上海クーデター。  

 1927.5.28 第一次山東出兵。               南京に反共国民政府を樹立。

 1928.6.4 張作霖爆殺事件。          1928.8 パリ不戦条約。(日英米仏など15国)

 1929.7.2 浜口雄幸内閣成立。         1929.10.24 アメリカ、株価の大暴落。

 1930.1.15 金輸出解禁。             1930.6.17 米、ホーリイ・スムート法成立。

 1930.11.14 浜口首相、狙撃され重態。                            

 1931.4.14 若槻礼次郎内閣成立。        1931.7 独政府、全銀行の支払い延期。

 1931.9.18 柳条湖事件。満州事変勃発。    1931.9 イギリス、金本位制を停止。

 1931.12.13 犬養毅内閣成立。金輸出禁止。                       

 1932.5.15 五・一五事件。             1932.7 ナチス、第1党となる。

 1932.5.26 斎藤実内閣成立。                英、オタワ会議で経済ブロック

 1932.9.15 日満議定書調印。                形成を開始。

 1933.3.28 満州問題で国際連盟を脱退。   1933.1.30 ヒトラー、首相となる。

 1933.5.31 塘沽停戦協定を締結。        1933.3 ルーズベルト、米大統領に当選。

                                  ナチスの一党独裁体制確立。

 

 満州事変(1931・昭和6年) 若槻礼次郎内閣。幣原喜重郎外務大臣。南次郎陸軍大臣。

 本庄繁関東軍司令官。(1931年12月から、犬養毅内閣。1932年5月から斎藤実内閣)。

 満鉄に打撃をあたえる「通遼−挑南間の鉄道建設・葫蘆島の港湾修築計画」や、中国での

 反日気運の高まりに危機感をもった関東軍は、高級参謀・板垣征四郎大佐、作戦参謀・

 石原莞爾中佐が中心となって、満州の武力制圧・中国からの独立をはかった。(板垣・石原

 は、満蒙の価値について、1、政治的には、ソ連にたいする防壁になるとともに、朝鮮の

 統治、中国を指導する拠点になり得る。2、経済的には、豊富な農産物、鞍山の鉄、

 撫順の石炭、それを基礎にして期待される各種企業の発展は、日本が悩む食糧、人口、

 失業問題を吸収できる。 と考えた。)

 1931年9月18日、関東軍は満鉄を爆破し、これを中国軍の攻撃として奉天市に攻め込んだ

 (柳条湖事件)。若槻内閣は不拡大方針を決めたが、関東軍を押えることができず、12月

 総辞職。犬養内閣は関東軍の満州攻略を支持した。政治家、日本国民の大多数も、

 陸軍、政府の方針に賛成した。(例えば斎藤内閣の時、1932年12月19日、全国の新聞

 132社が、「満州国独立支持」の共同宣言を発表している。)

 1932年3月、清の廃帝溥儀を執政として満州国の独立が宣言された。5月には五・一五

 事件で犬養首相が暗殺されるが、9月斎藤内閣のもとで日満議定書が調印された。

 議定書の内容は日本の権益の尊重・日本軍の駐留などで、満州国は日本の傀儡国家

 であった。                                          

  ( * 五・一五事件 ー 古賀清志・中村義雄中尉らの海軍青年将校、後藤映範らの陸軍

     士官候補生、橘孝三郎の愛郷塾メンバーが起こしたテロ事件で、犬養首相が暗殺

     された。当初批判的だった世論も、軍法会議の法廷で決起者の純真な動機( 政党・

     財閥の腐敗に憤り、農民・庶民の困窮を救いたい。) が明らかになると、 同情的に

     なった。海軍将校は、禁固十五年2名、同十三年1名、同十年3名など、陸軍士官

     候補生は、一律禁固四年。東京地裁で裁かれた愛郷塾メンバーは、橘孝三郎の

     無期懲役を筆頭に、懲役十五年から三年六ヶ月になったが、橘の無期は、恩赦に

     より最終的に十一年三ヶ月に短縮された。軍人による首相暗殺が、この程度の軽い

     刑ですまされた事は、のちの二・二六事件につながった。)        

 中国の提訴によって、国際連盟は1931年12月リットン調査団の派遣を決め、1933年2月

 満州国の不承認・日本軍の撤兵勧告案を、42:1で可決した。日本は、3月国際連盟を

 脱退し、孤立外交の道を歩んでいく。                             

 1933年5月(昭和8年)、日本軍が北京・天津にせまると、共産党軍との内戦をかかえて

 いた蒋介石は河北省東部の非武装化に同意した。(1933.5.31 塘沽停戦協定 )

 1935年6月、日本の天津軍(1901年北京議定書により、日本、英、米、仏、露、独、など

 11ヶ国は、公使館区域内に護衛兵をおく権利をもち、日本は天津に駐屯していた) は、

 非武装地域の拡大のため、国民政府華北代表何応欽に圧力をかけ、河北省からの

 中国軍の撤退・抗日運動の禁止を内容とする「梅津・何応欽協定」を結んだ。同年12月

 河北省北部(冀東地区)に冀東防共自治政府という傀儡政権を作った。         

 関東軍の参謀達が独断で始めた戦争を、内閣・陸軍中央が追認し、板垣征四郎・

 石原莞爾らが罰せられず逆に出世したことは、陸軍内に「下克上」「現地軍の独走」という

 風潮を生んだ。( 石原は、1935年8月参謀本部作戦課長、37年3月作戦部長に。

 板垣は、1938年6月近衛内閣の陸軍大臣になっている。) 

 それが、五・一五事件、河北省への勢力拡大、二・二六事件、日中戦争時の現地軍による

 「中華民国臨時政府設立」 (1937.12) などへつながっていく。 

                

 石橋湛山満州論 (1931.9.26 東洋経済新報・社説「満蒙問題解決の根本方針如何」)

   *石橋湛山(1884-1973)1911年東洋経済新報社入社。1946年5月第一次吉田内閣の

    蔵相。1956年12月、首相となるが、病気のため翌57年2月退陣。           

 「満蒙問題を根本的に解決する第一の要件は、支那の統一国家建設の要求を真っ直ぐに

 認識することだ。この認識が正しく出来て、初めて問題解決の手段は発見せられる。

 しからばどんな手段が発見せられるか。

 第一は、支那の統一国家建設の運動は、それが成功する時は、我が国民生活の安全と

 繁栄とに必然妨げを来すというなら、武力を以て断然その運動を叩きつぶすほかはない。

 我が国民主義のために、支那の国民主義を力を以て破壊する。こう明らかに宣言し行動

 すべきだ。                                              

 しかしこの手段には、次の諸問題が含まれる。(イ)支那が統一国家を実現することは、

 果して我が国の安全と繁栄とを妨げるか、(ロ)支那の統一国家建設運動は仮りに力を

 以て破壊し得ても、支那国民のその要求はどうであるか。もし要求をまでつぶすことは

 出来ぬとすれば、やがて再び、我が国にとっては一層悪化した形を以て、その運動は

 興らぬか。(ハ)仮にその叩きつぶしは完全に出来るとしても、今日および将来の国際

 状勢において、我が国は果して力を用いて、さようの手段を取ることが許さるるか。この

 後の二つの問題が、我が国に有利に展開することの証明せられぬ限り、第一の手段

 には出で得ない。                                       

 第二の手段は、支那の統一国家建設運動は、その成功する場合には、我が国に取って

 はなはだ不利な事柄だとするも、支那国民のその要求は、他国民のとうていこれをいかん

 ともすべからざるものとするならば、我は潔く彼の要求を容認し、彼の志を援け、我は別に

 我が安全と繁栄とをはかる工夫をすることだ。」                      

 「或る人々は、満蒙なくば我が国亡ぶという。それらの人々は、我が国は人口多く、土地は

 狭いから、そのハケ口を支那大陸に求めねばならぬと説くのだが、しかし人口問題は、

 領土を広げたからとて解決は出来ぬ。論より証拠、我が国は、明治27,8年の戦役以来、

 台湾・朝鮮・樺太を領土に加え、関東州・南洋諸島を勢力下に置き、満州の経営にまた

 少なからざる努力を払ったが、その結果は全く何ら人口問題の解決に役立ってない。

 また、満蒙の地を、鉄・石炭等々の供給地として我が国に確保することが、国民経済上

 必要欠くべからざる用意だと称うる。しかし、満蒙は何ら我が国に対して原料供給の

 特殊の便宜を与えていない。が仮りにその説が正しとするも、もしただそれだけの事

 ならば、敢えて満蒙に我が政治権力を加うるに及ばず、平和の経済関係、商売関係で、

 悠々目的を達し得る事である。否、かえってその方が、より善く目的を達し得るであろう。

 また或る論者は、満蒙なければ我が国防危しと説く。がこれはあたかも英国が、その

 国防を全くするには、対岸の欧大陸に領土を有せねばならぬと説くに等しい。記者は

 さようの事を信じ得ない。我がアジア大陸に対する国防線は、日本海にて十分だ。万一

 の場合もしこれが守れぬほどなら、満蒙を有するもけだし無益だ。

 「満蒙なくば我が国亡ぶというほどでなくても、原料の上から、国防の上から、満蒙が

 日本の領土である方が善い、あるいはせめてそこに相当の政治的権力を有する方が

 便利であるーそういう事も考えられる。もし何らの代償なしに、満蒙にさようの位置が

 占め得らるるならあるいは、貰って置いても悪くないかも知れぬ(それも実ははなはだ

 疑問だが)。しかし満蒙は、いうまでもなく、無償では我が国の欲する如くにはならぬ。

 少なくも感情的に支那全国民を敵に廻し、引いて世界列国を敵に廻し、なお我が国は

 この取引に利益があろうか。それは記者断じて逆なるを考える。」          

 満州に傀儡政権を建てることによって得る利益と、中国国民の敵意・国際社会での孤立

 というマイナスを比較すれば、満州事変は起こすべきではなかった。ただし、終戦時の

 満州在留邦人150万人という数字から考えると、人口問題の解決には役立ったと言える。

 また、対アメリカの国防という点からは、兵力分散でマイナスだが、対ソ連という点からは

 満州国建国は意味があったと言える。                              

                           <TOPへ戻る>   付属資料1へ戻る

 二・二六事件  1936.2.20衆議院総選挙で岡田啓介首相の民政党が勝利したが、その

 6日後1936年2月26日(昭和11年)、皇道派青年将校( 主な指導者、香田清貞大尉・

 安藤輝三大尉・磯部浅一元大尉・村中孝次元大尉・野中四郎大尉。理論指導者北一輝 )

 による、軍部クーデター事件が起こった。高橋是清蔵相、斎藤実宮内相、渡辺錠太郎

 教育総監が殺され、鈴木貫太郎侍従長が重傷、岡田首相も襲撃されたが奇跡的に脱出

 した。                                               

 クーデターの目的は、1、皇道派真崎甚三郎内閣の樹立 2、皇道派荒木貞夫を関東軍

 司令官にする 3、南次郎・宇垣一成大将、小磯国昭・建川美次中将の逮捕 などだった。

 皇道派の勢力が強く、陸軍省は当初クーデターを是認する告示をしたが、昭和天皇の

 「陸軍大臣にできぬとあらば、朕みずからが平定する。」との言葉で、クーデター軍は

 叛乱軍とされ鎮圧された。法廷闘争を恐れた陸軍首脳部は、非公開・弁護人なし・上告

 なしの特設軍法会議を開き、軍人死刑16名、無期禁固6名、民間人北一輝、西田悦ら

 3名が死刑、無期禁固1名などの判決が下された。                   

 真崎・荒木大将ら皇道派首脳は退役させられたが、それは統制派が陸軍内の権力を

 握ったに過ぎず、軍部による政治介入はかえって強まった。( 例えば、後継広田内閣で

 陸相予定の寺内寿一大将は、外相予定の吉田茂 ( 戦後首相 )、司法相予定の小原直、

 商工相予定の中島知久平、拓相予定の下村宏に反対し、入閣を阻止した。)

 

 軍部大臣現役武官制の復活                                

 広田弘毅内閣の時、1936.5.18(昭和11年)寺内陸相・永野海相の共同提案という形で、

 軍部大臣を現役の軍人とすることにし、勅命が出された。「二・二六事件の背後にいた

 真崎大将らが陸軍大臣になるのを防ぐ」というのが表むきの理由だったが、これにより

 軍部は大臣を出さないという手段で、内閣をつぶすことが可能になった。 

 1937.1月、広田内閣の後継として宇垣一成が天皇より組閣の大命を受けたが、陸軍が

 大臣を出さなかったため組閣が出来なかった。また、1940.7月には、畑陸相が辞任し

 後任の陸相を出さなかったため、米内光政内閣が総辞職に追い込まれた。(陸軍は、

 1940.6月仏を破った独と軍事同盟を結びたかったので親英米方針の米内内閣を倒した。)

 のちに、東条英機首相が陸相を兼ねることによって、内閣と陸軍の意志統一をはかったが

 海相を兼ねることは出来なかったので、陸軍と海軍の対立は続き、リーダーシップ不在の

 まま戦争は続いた。そして、終戦の決断は、昭和天皇の御聖断によって決められた。

 

                  2・26事件から真珠湾攻撃まで

        (日本)                          (世界)

 1934.7.8 岡田啓介内閣成立。         1934.1 独・ポーランド不可侵条約。

 1935.2 「天皇機関説」貴族院で批判。      1935.1 独、住民投票でザール地方獲得。

 1935.6.10 梅津・何応欽協定の調印。     1935.3 独、再軍備宣言。     

 1936.2.26 2・26事件。                                     

 1936.3.9 広田弘毅内閣成立。           1936.3.7 独、ラインラントに武力進駐。

 1936.5.18 軍部大臣現役武官制の復活。   1936.5 伊、エチオピア侵略完了。 

 1936.11.25 日独防共協定。                               

 1937.1.29 宇垣一成、陸軍の反対で組閣できず。   1937.11 日独伊防共協定。

 1937.2.2 林銑十郎内閣成立。               ヒトラー、「戦争を賭しても生存圏

 1937.6.4 近江文麿内閣成立。               を獲得」との決意を、軍部・外交

 1937.7.7 盧溝橋事件。(日中戦争)            幹部に披瀝。         

 1938.1.16 国民政府を対手とせず。       1938.3 独、オーストリア併合。

 1938.4  国家総動員法成立。          1938.9.30 ミュンヘン会談。ズデーテン獲得

 1939.1.5 平沼騏一郎内閣成立。         1939.3.15 独、チェコスロバキア解体。

 1939.8.20 ノモンハン、日本軍1個師団全滅。 1939.8.23 独ソ不可侵条約。

 1939.8.30 阿部信行内閣成立。          1939.9.1 独、ポーランド侵攻。

                             1939.9.3 英・仏対独宣戦布告。(攻撃せず)

 1939.12.26 内閣総辞職要求( 物価高騰 )     1939.9.17 ソ連、ポーランド侵攻。

 1940.1.16 米内光政内閣成立。          1939.11.30 ソ連、フィンランド攻撃。

 1940.7.22 近衛文麿内閣成立。          1940.5.14 独、仏侵攻。(6.22仏降伏)

 1940.9.27 日独伊三国軍事同盟。(松岡外相) 1940.8 ソ連、バルト三国併合。

 1941.3 治安維持法の強化( 予防拘禁制)                          

 1941.4.13 日ソ不可侵条約。(松岡外相)    1941.6.22 独、ソ連侵攻。

 1941.7.28 南部仏印進駐。(松岡反対解任)   1941.8.1 米、対日石油輸出禁止。

 1941.10.18 東条英機内閣成立。         1941.11.26 ハル・ノート。

 1941.12.8 真珠湾攻撃。日米開戦。        1941.12.5 独、モスクワ攻略に失敗。

 

 日中戦争 (1937−1945・昭和12年) 近衛文麿内閣。広田弘毅外務大臣。

 杉山元陸軍大臣。米内光政海軍大臣。賀屋興宣大蔵大臣。

 1937年7月7日、北京郊外の蘆溝橋で日本軍と中国軍の戦闘が勃発。(蘆溝橋事件

 ー 中国共産党の陰謀との説あり) 7月11日、現地で停戦協定が結ばれたが、

 政府は協定の実施を促進させるという理由で、「朝鮮軍・関東軍の華北派兵」を決定

 する。政府が議会代表に出兵の理解と協力を求めると、民政党・政友会の二大政党は、

 「政府の断乎たる処置を断乎として支援する」声明を発表した。            

 7月14日、陸軍は「・排日要人の罷免 ・排日団体の撤去 ・排日言論機関の取締

 ・北京からの中国軍撤退」などを、冀察政務委員長宋哲元に要求する。7月18日、

 宋哲元は「・将来の保障については、宋哲元が北京に帰ってから実行 ・排日要人の

 罷免 ・北京には宋哲元直系の衛隊だけを駐留」という内容を受諾したが、蒋介石は

 19日ラジオ放送で「・いかなる解決も、中国の主権と領土保全を侵害しない ・北京

 からの中国軍の撤退は認めない」という条件を示した。宋哲元は、蒋介石の「日本に

 譲歩はしない。蘆溝橋・北京を守るためには、対日戦争も辞さない」という決定を

 受け入れ、北京からの軍隊の撤退を中止した。

 7月25日北京ー天津間の廊坊で、電線修理中の日本軍が攻撃され、26日には北京城

 広安門を通過中の日本軍が攻撃された。28日、日本軍は中国軍に総攻撃を行い北京

 周辺を占領する。29日親日政権「冀東防共自治政府」の首都通州では、保安隊が蜂起

 し、女性子供を含む在留邦人200人が虐殺されるという事件が起きた。( 通州事件 )

 8月7日外・陸・海相の間で停戦条件を決めるなどの動きはあったが、同7日上海で

 海軍大山中尉が中国側に殺される事件が起きる。11日揚子江に駐留する日本艦隊が、

 日本人居留民保護のため上海に出現すると、蒋介石は日本の本格的な侵攻とみて、

 上海周辺の中国軍を増強した。13日近衛内閣は、二個師団の上海派兵を決定したが

 同じ頃中国軍は上海の日本軍に対し攻撃を開始した。17日近衛内閣は、不拡大方針

 を放棄する。

 蘆溝橋の局地的戦闘が戦争に拡大したのは、「 1、日本側が、この機会を利用して

 華北での支配権を強化しようとした。(中国軍は弱く、短期間で屈服すると考えた。)

 2、蒋介石が、日本との全面戦争を決意し、譲歩をしなかった。」 ためである。

 日本軍は12月南京を占領するが、この時中国軍捕虜の大量処刑、日本兵による

 多数の暴行、略奪があった。( 南京事件・中支那方面軍司令官松井石根大将 )

 現地軍は「中華民国臨時政府」を設立するが、中国の抵抗は続く。駐支ドイツ大使の

 仲介案も、陸軍と、それと直結した末次内相・賀屋蔵相の反対により、強硬案に

 変わってしまった。( 主な条件 ・満州国の正式承認 ・排日排満政策の放棄

 ・北支、内蒙の非武装地帯化 ・北支に中国主権の下で広範な権限を有する適当な

 機構を設立 ・華中占拠区域の非武装化 ・賠償 )  

 蒋介石は、「屈服して滅びるよりは、戦って敗れて滅びた方がよい」と考え、和平拒否

 を決定する。1938年1月14日、中国側から「日本側提示の条件は漠然として

 つまびらかでない。具体的に明示されたい。」との回答があると、蒋介石には交渉する

 気がないと考えた近衛内閣は、1月16日「国民政府を対手とせず」と声明し、日中間

 の全面戦争へと拡大していった。( 陸軍の中でも、陸軍参謀本部ー多田駿参謀次長・

 石原莞爾少将ーは、ソ連の脅威を第一に考え国民政府との交渉継続を主張したが、

 内閣総辞職という事態を避けるため妥協し、政府案を承認した。) 

 政治家、国民の大多数は、近衛内閣の方針を支持した。(例えば、1940.2.2帝国議会

 において民政党斎藤隆夫が政府・陸軍を批判したところ、反軍演説と烙印を押され、

 2月7日には296対7で衆議院を除名されてしまった。ただし、1942年4月の翼賛選挙に

 斎藤隆夫は非推薦候補で出馬し、最高当選を果たした。)              

 1940年3月(昭和15年)、日本の支援により、汪精衛の新国民政府が作られたが、

 中国国民の支持も、国際的な承認も得られず、日中戦争は続いた。

 

 日中戦争思想・言論の弾圧   政府は、戦争に批判的な思想や集団を弾圧して、

 総動員体制を整えようとした。1937年12月15日、日本無産党とその傘下の労働組合(全評)

 の幹部や、労農派の学者ら400名が検挙された。(人民戦線事件)  また、「民主主義・

 自由主義の思想は共産主義の温床」であるとされ、38年10月自由主義思想の河合栄治郎

 東大教授の著書「ファシズム批判」が発売禁止となり、河合は東大を休職、起訴された。

 雑誌「中央公論38年3月号」は、作家石川達三が南京攻略戦を見て書いた「生きてゐる兵隊」

 という小説に、中国人虐待・虐殺などの場面があったため、発売禁止。 石川と編集名義人は、

 新聞紙法違反・安寧秩序紊乱の容疑で起訴、禁固4ヶ月・執行猶予3年となる。

 物資不足で「用紙割当て制」になり、多くの弱小新聞・雑誌が、政府・軍部の気に入らないという

 理由で用紙供給を止められ、廃刊となった。国策の名のもとに新聞・雑誌は整理統合され、

 39年末に廃刊届けを出したのは五百数十件にも達した。発行を続けるため新聞・雑誌は、

 「自主規制」という名のもとに、戦争体制に協力するしかなかった。そして、戦争記事はよく

 売れたので、 戦意高揚記事を積極的に書く新聞・雑誌も多かった。

 

 (エルバ島を脱出し、パリへ帰還するナポレオン 新聞の見出しの変わり方)

 ナポレオンがエルバ島を脱出し、パリへ帰還するまでの「新聞の見出し」を見ると、マスコミが

 世論・権力に迎合する事が良くわかる。

 「猛虎、檻を破る」 「悪鬼の航海は三日間」 「卑劣漢、フレジュスに上陸」 「ハゲタカ、

 アンチーブに達す」 「侵略者、グルノーブルに到着」 「将軍、リヨンに入城」 「ナポレオン、

 昨夜フォンテンヌブローで眠る」 「皇帝、今日テュイリー宮に入城の予定」 「皇帝陛下、

 テュイリーに入らせらる」

 

 英国王のスピーチ(イギリス/オーストラリア映画・監督トム・フーパー)

 1939年9月1日ドイツがポーランドを侵攻、9月3日英国はドイツに宣戦布告をする。

 英国王ジョージ6世は、国民に向けてラジオ演説を行う。

 「我々は敵国(ドイツ)がかかげる『主義』に対して戦いを挑みます。なぜならその主義が勝利

 するようであれば、世界の文明国のあらゆる秩序が崩壊するからです。そのような主義は

 すべての虚飾をとりはらえば、『力こそすべて』という単に原始的で幼稚な理論に過ぎません。

 (中略)国民は我国が開戦にいたった理由を、理解してくれると信じています。そして全員が、

 冷静に、毅然として、一致団結し、この試練を乗りきって欲しいのです。それは苦難の道であり、

 暗黒の日々が待ち受けるでしょう。そして戦争は、もはや戦場だけで行われるものではなくなり

 ます。しかし我々は、正しいと信じる事だけを行い、敬虔な心で、厳粛に神に仕えましょう。

 強い意志をもち、神に忠実であるならば、いかなる犠牲を払っても、神のご意志のもと、我々は

 勝利します」

 

 日独伊三国軍事同盟日ソ中立条約  1940年9月27日(昭和15年)、近衛首相、

 松岡外相のもとで、「日独伊三国軍事同盟」が締結された。主な内容は、「1、三国の

 いずれかの一国が、現にヨーロッパ戦争または日華紛争に参加していない一国

 ( アメリカを指す) により攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法

 により相互に援助する。2、ドイツは、日ソ国交調整のために周旋する。」であった。

 日本側のねらいは、フランスに勝利した強大なドイツと組み、またソ連との関係改善を

 はかり、その力を背景にアメリカとの交渉を有利に進めるということだった。ドイツ側は、

 日本があらゆる方法によってアメリカを牽制し、ヨーロッパ戦争へのアメリカ参戦を防止

 することをねらった。しかし、三国軍事同盟はアメリカとの関係を決定的に悪化させ、

 「・蒋介石国民政府への援助強化 ・日本への輸出制限の強化 ・太平洋艦隊の増強。」

 という結果を招いてしまった。                                  

 日本国民の大部分は、三国軍事同盟を支持した。( 例えば、8.28朝日新聞は、「今後

 帝国外交はこの枢軸外交を中軸として、東亜共栄圏の確立に邁進することとなるべく、

 これを阻止せんとする旧勢力に対しては一段と毅然たる態勢をとることになるだろう」

 と述べている。)                                         

 ドイツは、三国同盟にソ連も加えようとしたが、ソ連は「・独軍のフィンランド撤退。

 ・ソ連は、ブルガリアを保護し、海峡地帯に陸海軍基地を設ける。・バクウより

 ペルシャ湾までの地域を、ソ連の勢力範囲とする。」という強硬な要求をしてきた。

 1940年12月ヒトラーは、対ソ開戦を決定する。                  

 1941年4月13日、松岡外相のもとで日ソ中立条約が締結される。日本は独ソ戦に

 巻き込まれることを回避しようとし、ソ連は対独戦争が起きた場合に備え、日本軍の

 脅威を除いておこうとした。                                

 

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